五輪はご臨終?

筆者は子供の頃、母親からよく「あんたはひねくれ者だ」と言われていたものである。何故なら、バレーボール世界大会(?)のTV中継に多大な嫌悪感を抱いた筆者は、口角泡を飛ばしてそれを批難していたからである。

 

「日本チャチャチャ」
「そ~れっ!」

 

大声援の後押しを受けた全日本チームが得点すると、アナウンサーが絶叫する。

 

「日本決まったぁ! 同点に追いつく値千金のアタック!」

 

みたいに。で、その度に筆者は違和感を感じるのである。何故、公平であるはずのアナウンサーは日本チームばかり応援するのであろうか? と。そして彼(彼女)は何故、相手チームの得点やファインプレーをもっと褒め称えないのであろうか、と。その度に母親は筆者を諭したものである。曰く「あんたも日本人なんだから……」云々。今では少し丸くなったので、サッカーW杯の日本代表が得点を決めると嬉しいと思うのではある(尤も、アナウンサーの絶叫が煩いことに変わりはない)が、これはバレーボールとサッカーの違いがゆえではない、と筆者は確信している。

 

ところで、筆者はスポーツを政治に利用してはならない、などというナイーブな意見には与しない。もし本当にそう思うのであれば、競技団体は国から強化費用などを受け取るべきではないし、国立の競技場やその他施設も利用するべきではない、と思っている。競技人口の拡大も、選手レベルの引き上げも、国内での選抜から海外への派遣まで、須らく各競技団体が自弁で行えばよかろう。無論、結果としてスポーツは金持ちに支配されることになるが、政治による支配から解放されれば、カネに支配されるようになるのは当然の成り行きであろう。あるいは逆に、スポーツをカネから解放するために、政治が介入していると表現することもできるかもしれない。そして「カネを出せ、口は出すな」が通らないのは、古今東西のお約束でもある。

 

たまにスポーツ選手が国民栄誉賞等を受賞すると日本中が大騒ぎになるようであるが、「スポーツの政治利用」を批難したのと同じ口が「〇〇選手の国民栄誉賞は目出度い」等と宣っているのを見ると、控えめに言っても「コイツバカか?」と思わざるを得ない。国民栄誉賞など、時の為政者の人気取り政策に過ぎないのだから。ヤン提督がユリアンを軍人にしたくなかった所以であろう?

 

さて、北京冬季五輪。ドーピング疑惑やら不可解判定やら、色々と不祥事方面が賑わっているようで面白い。何しろ筆者にとっては、妄想ネタの宝庫なのだ……以下は筆者のまるっきりの妄想である、とお断りしておく。あぁ、不可解なジャッジによって不幸な目にあった選手には可哀そうではあると思う。しかし実際のところ、競技の世界において審判は絶対であると理解する以外に法はあるまい。いくら批難したところで、もう結果は覆らないのである。ならばせめて、笑い飛ばすしかないであろう。これはそういう妄想の類である。

 

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20XX年、ついに初の2都市同時開催となる夏季五輪が開幕された。主催都市は上海とラスベガス。そして五輪の華、世界最速の称号でもある男子100m走ゴールドメダルは、2人の選手に贈られた。すなわち、ジンバブエ出身ンゴニザシェ・バンダ上海五輪金メダリストと、キューバ出身アルド・キンテーロ ラスベガス五輪金メダリストの2人に。そう、この年のオリンピックは上海五輪とラスベガス五輪に分裂して開催された初のオリンピックであったのだ。

 

上海五輪の開催はIOCから分離独立した「凡人民民主的奥林匹克委員会」が開催を担当したのであるが、水面下では激しい参加国招致バトルがIOCとの間で繰り広げられたという。実弾と鉛弾が飛び交う交渉の末、上海五輪にはアジア・アフリカ州を中心に109ヶ国と地域が、ラスベガス五輪には欧州・南北米大陸を中心に103ヶ国と地域がそれぞれ参加することとなった。無論、重複エントリーする国はなく、中立を唱えるアジア州のいくつかの国と地域は両大会へのボイコットを表明したのであった。

 

発端は2022年に開催された北京冬季五輪である。この年の五輪ではロシア選手のドーピング疑惑や開催都市である中国出身選手への明らかな贔屓判定が相次ぎ、特に旧西側諸国からは大きな反発と疑惑解明要求が寄せられていた。また同時にこの年は、ロシア・中国にあってはそれぞれ、政治外交的に大きな転換点を迎えていた年でもあった。すなわち、ロシアにおけるウクライナ問題と中国における人権問題ならびに終身首席問題である。いずれも後には引けない両国は共同して旧西側諸国への反発を企てる。それが「凡人民民主的奥林匹克委員会」の設立であった。

 

そう、元々2000年代の五輪には、様々な議論が提示されていたのである……

 

1964年東京五輪および1988年ソウル五輪は、五輪開催があたかも先進国の仲間入りを証明するかのような華々しい成功を収め、欧米地域外への五輪拡大が期待される発端ともなった。更には、1982年ロサンゼルス五輪の商業的成功を機に拡大方針に舵を切ったIOCの思惑とも相まって、20世紀末には発展途上各国、就中南半球地域での五輪開催が期待されるようになっていたのである。そしてその象徴たる2016年リオデジャネイロ五輪は、しかし、当初の期待に応えることができなかったと言われて久しい。すなわち、商業的拡大路線を進むIOCは肥大化し過ぎていたのである、と。その後、五輪開催にかかる費用が経済効果を上回る大会が続いた結果、気づいた時には既に、五輪招致レースに立候補する都市は激減していた。ただ2つの例外である米国と中国、およびその強い影響力のある国を除いては……

 

そのような事情を背景に、2022年北京大会終了後に中国政府が出した公式声明の大要は次のようであった。

 

汚職と腐敗に塗れた拝金主義者どもの群がる国際オリンピック委員会には、もはや五輪憲章を唱える資格なし。彼らは未だに白人主義、西洋主義から抜け出せず、彼らこそがオリンピズムの精神を汚していることは既に明白。クーベルタン男爵の遺志を継ぎ五輪憲章の精神を真に具現化するためには、現在の国際オリンピック委員会に替わる新たな協会の設立が必要不可欠である、と我々は考える」

 

こうして中国、ロシアを中心に設立された「凡人民民主的奥林匹克委員会 (略称:UPDOC Universal Peoples Democratic Olympic Comittee)」は、各国政府ならびにオリンピック委員会に大きな決断を迫ることとなった。曰く「国際オリンピック委員会」と「凡人民民主的奥林匹克委員会」のいずれに参加するのか、と。そう、これは踏み絵と同義である。米国支配と中国支配の、貴国はいずれを受け容れるつもりであるのか、との。

 

後発のUPDOCにとっては、その正当性を示すことが最初の課題であった。尤も、IOCの行為が五輪憲章に適当していない箇所の発見など、今やクイズ番組の出題にもなり得ないほど自明のことである。IOCに正当性が無いことを散々に指摘した上で、UPDOCはその公用語に中国語、ロシア語、ギリシャ語、アラビア語を加えるところから取り掛かる。そして2024年パリ五輪以降、中国・ロシアは五輪ボイコットを続けると同時にUPDOCの組織固めに専念するようになっていく。

 

開催の度に参加国が減っていくIOC五輪には、次第に開催都市からも怨嗟の声が挙がり始めていた。今や米国メディアコングロマリットの実質的支配下にあるIOC五輪は、アスリートの都合に関わらず競技時間が米国のゴールデンタイムに合わせられ、開催国ですらその放映権の取得には莫大な費用が掛かる始末。五輪とは、開催国の費用を使ってIOCと米国メディアに金儲けをさせるための仕組みであることに、今や多くの人々が気づき始めていたのである。

 

その点、古来より朝貢貿易のスタイルに馴染みの深い中国は、特に開発途上各国からは賞賛の声をもって迎えられた。朝貢貿易では必ず、貢物より多くの下賜品が得られることが慣例である。UPDOC五輪を開催すれば、恐らくは開催コストよりも多くの経済的便益を、中国政府が担保してくれることであろう。あるいはUPDOC五輪に選手を派遣するだけでも……UPDOCに対するそのような期待は、IOC五輪が開催される度に、それを反面教師として膨らんでいったのである。

 

UPDOCとIOCによる招致バトルの大勢を決したのは、ギリシャ政府およびギリシャオリンピック委員会がUPDOCへの正式参加を表明したことであろう。早くからその公用語ギリシャ語を採用していたUPDOCは改めてギリシャ人のアポストロス・ツィオボルを会長に選出し、UPDOCこそが古代オリンピックの正当なる後継者であることを内外に宣伝した。また同時に、彼を含む歴代UPDOC会長ならびに理事の全てが平民の出身であることも、五輪憲章の精神に則るものであるとしてこれを宣伝に利用した。米国と中国の間で揺れ動く小国にとって、ギリシャ人会長の選出が決定打-あるいは適当なエクスキューズ-となったであろうことは想像に難くない。

 

斯くして20XX年の五輪2都市同時開催に至る。UPDOCは今後、旧東欧諸国を中心に参加国地域を増やしていくと予想されている。一方のIOCは敵失によるの他には打つ手なし、というのが現状のようである。無論IOC内部にあっても改革推進派の声は日増しに大きくなってはいるのだが、このような場合の改革など方向性が知れているのである。すなわち、コスト削減、大会のスリム化、簡素化、透明化、公平化、etc.……しかし、シンプルでコンパクトになったスポーツ大会など、誰が見向きするというのであろう。そのうちに、米国内にスポーツモンロー主義が吹き荒れることは自明である。

 

「米国内での決戦こそワールドプレミアムである」
「競技をしたければ米国に来るべし」
「海外開催のスポーツに米ドルを支払う必要なし」

 

ここに、多くの者が勘違いしていることがある。すなわち米国は島国である、という事実である。島国は大陸国家とは発想が異なる。何故なら島国は、いつでも国境を閉じることができるのであるから。

 

いずれIOC五輪はその終焉を迎えることになろう。それは、中国による覇権の確立と同義とは限らないが、少なくとも、西欧的価値観による世界支配の終焉には繋がるかもしれない。願わくばそれが、真の意味における価値観の多様化であらんことを……

 

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五輪の未来に関する筆者の妄想に基づくショートストーリー。その名も『五輪のご臨終』ならぬ……

 

『五輪終』

 

おあとがよろしいようで