ウクライナ紛争は世界史観を「長い20世紀」として書き換えるか?

「長い19世紀」という概念があるそうだ。フランス革命から始まって第1次世界大戦に至るまでの、約125年ほどの期間をそう言うらしい。『国民国家が成立して帝国として発展し、その帝国主義国家が世界を分割統治する時代』として一括りに捉えると、この世紀の期間は100年を超える、と言う見方である。

 

それに対して「短い20世紀」という概念もあるそうだ。こちらは、『2度の世界大戦を経て米ソ2超大国を中心に東西に収斂・分割された世界秩序が、ソ連の解体によって終焉を迎える』までのおよそ75年間を指すらしい。

 

さて、上の歴史観によれば1991年に始まると言う21世紀は、果たして「長い21世紀」なのか、あるいはまた短く終わるのか? 今次ウクライナ紛争が始まらない前までの世界史観にあっては、「21世紀」の位置づけは「短い20世紀」に続くものとしてその存在意義を問われていたことであろう。しかしウクライナ紛争後の世界史観は、筆者はこれが根本から書き換えられるべきである、と考えている。筆者の考える新たな世界史観の基本的な要目は、以下の3点である。

 

①「長い20世紀」は1914年に始まり、2022年現在、まだ継続している
②「長い20世紀」は『民族自決』の世紀と定義することができる
③「長い20世紀」は新たに起こる「21世紀」のムーブメントにより終焉を迎える

 

よく考えてみれば第1次世界大戦の引き金を引いたのは、オーストリア帝国内における『民族自決』運動である。また第2次世界大戦の結果として多くのアジア・アフリカ諸国は、『民族自決』の旗頭の下に独立を果たした。そしてソ連の崩壊は多くの民族の独立-と共和国の誕生-を呼び起こし、2020年代の現在においてもその潮流は止むことがない。

 

要するに「米ソ2超大国」という存在があまりにもインパクトが強すぎるため、この体制の誕生から崩壊までを「短い20世紀」と捉えていたのである。ウクライナ紛争前までは……しかし米ソによる世界の分割統治とは実はこの世紀の表面的なものに過ぎない、と見直してみれば、20世紀の実態をより正しく捉え直すことが可能になる。

 

つまり20世紀とは

「『普遍帝国』として統合された諸民族が『民族自決』を成し遂げていく過程」

として捉えるべきであり、換言すれば

「『民族自決』を抑え込もうとするあらゆる意思が失敗に終わった過程」

と捉え直すべきなのではないだろうか。これが掲題の意味である。


さてウクライナ紛争とは、ウクライナ旧ソ連『普遍帝国』からの『民族自決』であると同時に、ウクライナ『普遍帝国』内におけるロシア系市民の『民族自決』と捉えることもできよう。そう考えるとつまり「ウクライナ紛争」とは、まだ「長い20世紀」が終わっていないことの証明なのである。

 

世界を見渡せば、「長い20世紀」の証拠はウクライナ紛争だけではないことに気づく。

 

例えば、EU『普遍帝国』の拡大-欧州諸国の『民族自決』を抑え込む動き-とBREXIT-英国人の『民族自決』-もそのように理解できる。無論、スコットランドにおける英『普遍帝国』からの独立機運は論を待たぬであろう。あるいはウイグルにしろロヒンギャにしろ、各『普遍帝国』中央政府が抑え込みに必死である一方、『民族自決』の潮流は鎮まるところを知らない。

 

あるいは、米『普遍帝国』におけるトランプ大統領も、『民族自決』の証拠の亜種と言ってもよいかもしれない。昨今の米国モンロー主義は世界統合『普遍帝国』から米国が距離を置こうとしている、と捉えることができるし、その米『普遍帝国』内にあってはラストベルトに象徴される忘れ去られた白人達の『民族自決』がトランプ大統領を生んだと理解することもできよう。


要するに「長い20世紀」とは

「『力』に基づく国家統合-『普遍帝国』-から『個』を開放する運動-『民族自決』-が成果を挙げた期間」

と再定義することができよう。ここで『力』とは必ずしも武力や国力などのハードパワーのみを指すのではなく、理念や正義などのソフトパワーも含んでいるつもりである。例えば『社会主義』も『民主主義』も等しく、『普遍帝国』として民族を統合するための「理念」たり得るであろう。

 

その延長には昨今の行き過ぎた-と筆者には思われる-ポリティカルコレクトネスなども含まれる。すなわちそれは、「正義」という「力」により個人の思想信条を縛り統合しようとする動きに他ならないのであるから。要するに様々な力が「個」を「統合」しようとするのが20世紀であり、その過程が悉く水泡に帰す時代が「20世紀」なのである。

 

では、その「長い20世紀」を終焉させる「21世紀」に、人は何を見ることになるのであろうか。無論、そのようなことが筆者に知れようはずもないのだが、筆者は可能性のひとつとして「ボーダーレスの時代」になると考えている。

 

そうは言っても人類社会が「完全自由状態」になどなるはずもなく何らかの形で統合されるに違いないのだが、人は恐らく「国家に拠る統合」以外の拠り所を見つけることになるのであろう。それは「宗教」かもしれないし「経済」かもしれないし「道徳」かもしれない。それではまるで中世に逆戻りするようではあるのだが、歴史は繰り返すものかもしれない、とも思える。

 

いずれにせよ結論として、ウクライナ紛争とは「人類社会を新たな混沌に導いた」存在では全くない、と筆者は考える。ウクライナ紛争とは「人類社会が未だに20世紀という混沌から脱していないことを証明した」存在であるに過ぎないのである。そして……後年「20世紀の方がまだましだった」と言われないような21世紀の到来を、筆者は希望している。