経営者はもっと生データに触れるべきだ、と思う件

 もう25年くらい昔の話であるが、筆者はとある大企業の役員室会議システムなるものを設計したことがある。ペーパーレス会議システムと命名されたそのシステムでは、役員会議に上程される資料は予め全てデータ化された上で、役員さん1人1人の席に埋め込まれたタッチパネルモニタに表示されるものであった。当時の大企業は役員さんの数が半端なくて、確か35席分くらいのモニタを用意した記憶がある(専用の円卓も某家具メーカーさんに発注されていたのである、そう言えば……)。

 

 何故そんなことを思い出したかというと、最近とあるCPM(Corporate Performance Management)システムのご紹介を受けたからで、本日のテーマは掲題の通り。いや、日頃から生データに直接触れている経営者の方も多くいらっしゃるだろうから、まぁ、一部にはそうでない方もいるだろう、という前提で以下……

 

 以前、とある企業さんの役員会議にお呼び頂いたことがある。まぁ、多分どの会社でも似たようなものなのだろうけれども、その会社の役員会議では、各部門の責任者なり代表者なりが順番に、パワーポイントか何かで作成した資料をプロジェクタで表示しながら説明を行っていた。

 

 さて、その席上トップマネジメントが「ちょっと、関東地方のここ半年の売上データを見せてくれ」みたいなことを言いだした。で、そんなことを予定していなかった担当部門の責任者は当然のように「それでは、来月の会議でご報告申し上げます」的な返答をしたのである。まぁ日本的と言うか何と言うか、その場は「そうか、分かった」で事なき(?)を得た責任者は、実際、翌月の会議では「関東地方の売上データ」を報告資料に含めることにしたのである。

 

 まぁ、巷間よく言われる「ご飯論法」の亜流であろうか、これは?

 

 お気づきの通り、この時のトップマネジメントの質問は、彼が本当に聞きたいことではなかった。それは単に質問の導入部分に過ぎなくて、翌月の会議では当然「じゃぁ、関西地方の売上を見せてくれ」という質問が投げられ、また翌月に持越しになる。そのまた翌月の会議では「関東と関西で売上の傾向に差が見られるようだが……?」みたいな質問が出てまた翌月に繰り越して、改めて報告がなされる時には既に、元の疑問がどこにあったのかが分からなくなってしまう(時宜を逸してしまう)……という不幸な現場を、筆者は見てしまったのであった(何故この時、筆者が何もできなかったのか……という疑問はお察し)。

 

 それで今回ご紹介頂いたCPMなのだが、何と便利なことに、業績のインサイトをパワーポイントに転載して報告する機能があると言う……そう、こういうのなのです、元凶は……

 

 きっと、財務部だか経営企画部だが営業企画部だか知らないが、こういうシステムの実際のユーザーはこういう部門の人達なのであろう。で、きれいな様式で出力できて、トップマネジメントに報告する業務にかけるコスト(労力)が下がる(生産性が上がる)と言うことらしい。でもコレ、本質的にはさっきの不幸な会社さんと同じなのでは? などと筆者は思ってしまうのである。

 

 CPM導入で生産性が、とか言うのはその通りだと思うけれど、肝心なのはそこではない。トップマネジメントにだけ見えている景色と現場からの報告の間のギャップ。これを埋めることこそが、トップマネジメントの為すべき、且つ、トップマネジメントにしかできない役割なのではなかろうか。

 

 それを「ご飯論法の亜流」のようなもので煙に巻かれてしまってはいけない、と筆者は思う。そしてCPMのようなシステムが進化することは、導入部門をして「より良くトップを煙に巻くツール」を手中にする、という陥穽に陥れることになるのではなかろうか。換言すれば、仕事を作るためにツールを導入することになるのではなかろうか、という疑念である。半ば無意識に、あるいは半ば確信犯的に……

 

 筆者が社会人になった頃、筆者のお世話になった会社では「ワープロ」とは部長の手書き文書を事務の女性が「清書」するためのツールであった(そんなことのために高価なWSが使われていた……)。そんな時代であればトップマネジメントが生データを、等と言うことは妄言であるとも思える。しかしリテラシーが向上した昨今であれば、経営者こそが、これらツールのユーザーになるべきではないだろうか、と思う次第。

 

 そうでなければ冒頭に挙げた25年前の「ペーパーレスシステム」と大差ないのである。それは、予め担当部門が(担当部門の都合に合わせて)作成した資料に基づき企業の意思決定を行うシステムである。今の時代、そうではないと思う。もっと、経営者が生データに触り、経営者自らがその経験と直感に基づきインサイトを知る必要がある、と筆者は思うのである。

 

 いや、多分既に多くの経営者の方がそうされているであろうから、まぁ本論は、未だそうで無い方に向けて……

戦争はそのうち一度はゲームになるのではないか?

小説家になろう」で連載していた長編小説が完結した。

 

レミングの法則

https://ncode.syosetu.com/n6406hf/

 

 以下、執筆に際し考えていたテーマのひとつを、同サイトの「活動報告」に記載したので、こちらにも転記。

 

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 ようやく、全50話で完結しました。描き始めてから4か月。最初は1か月くらいで上がるつもりだったのですが、自分の見込みの何たる甘いことか……まぁ終わってみれば、少し寂しくもありますが、とりあえず一旦は終了です。

 

 実は以前からずっと考えていたことがあって、それは
「戦争はそのうち一度はゲームになるのではないか?」
 というテーマ。

 

 昨今、急速に兵器の自動化や無人化が進んでいて、近い将来の戦場では、コンピュータとロボットがその主役の座から人間を引きずり降ろすことは明白です。ですが自動化された兵器は更にそのコストが嵩み、そのうち
「兵器自体がバーチャルになるのではないか?」
 というのがその意味です。

 

 その「ゲームになった戦争」では、いわゆるeスポーツのようなものを思い浮かべて頂ければ分かりやすいと思うのですが、サーバを各国(国連等)で共有管理して、選ばれた戦士がバーチャルで戦闘を行うのです。

 

 で例えば、現在だとウクライナ辺りが大変きな臭いと報道されている訳ですが、ロシアが実体としての戦力をクリミアに投射する替わりに、ロシア軍とウクライナ軍の代表者が APEX のような戦場で勝敗をつける、みたいな未来……だって、VRゴーグルをつけて後方でコントローラを操作するのであれば、もう実際に兵器を作って互いにそれを壊す必要なんかないではないか、と……そもそも、エコじゃないし、それって……

 

 そして、例えば「そのゲームの勝者がクリミア半島を領土化できる」なんて言ったら妄言と言われるでしょうか? しかし、無人化された戦争とゲームの戦争と、一体何が違うのでしょう?

 

 兵力の大小はゲーム内課金の多寡で実現すればいいし、ブロックチェーン的な技術で透明性・履歴性を確保した上で兵器開発すらバーチャルに行ったらいいし、つまりは国力の差だってバーチャルに実現可能な訳です。地政学的なことを言うのであれば、そもそも戦場を地球の地理と同じ設定にしてしまえばよい。そして何よりゲームのルールは国連(国際法?)が管理すればいいのです。VRゴーグル無人化兵器を操作する「現実の戦争」とVRゴーグルアバターを操作する「ゲームの戦争」、一体何が違うと言うのでしょうか? えっ、「ゲームルールの管理が公平に行われない可能性がある」ですって? 何を言っているのでしょう。そんなの、今と同じではないですか!

 

 で、「人道」とか宣わって「兵が死なない戦争」が一度は実用化されて、それで実際に戦争が起こって、そしたら負けた方が「我が国はまだ敗けていない」とか言って、やっぱり最後は実体兵器を持ち出してリアルウォーに突入する……そんな未来を人類史が描くのではないか、というのが、冒頭に掲げた私のテーマです。
「戦争はそのうち一度はゲームになるのではないか?」

 

 こういうことをずっと考えていたことの一つの解を、最終話でフレミーに語らせてみました。
「それじゃぁまるで、中世の戦争だわ」
 そう。ゲームの戦争って、実は既に現実に起きていたことなのでした。チェスとAPEXと、一体何が違うというのでしょう? そして、中世封建領主はチェスで決着をつけることができましたが、国民国家・民主国家ではきっと……それができるくらいなら、きっととっくに外交で決着をつけられていると思うのです。それができないから、換言すれば、国民がそれを許さないから、戦争が起こるのです。現代では……

 

 そう考えると「戦争は悪だ」と単純に言う人の考えが分からなくなります。民主国家において戦争は、民衆の選択結果なのです。いや、「戦争は絶対悪」で、「(それを避けるために)独裁制が望ましい」という主張なら100歩譲って理解の余地がありますが、「民主主義万歳!」と叫んだ同じ口が「戦争反対!」と叫ぶのは、思考が足りていないのではないか、と思わないでもないのです。

 

 でやっぱり、「人が死ぬから戦争は悪」というテーゼが成り立つ上では戦争の無人化はあり得ない、というのが本論の帰結なのです。トートロジーかしら、これ? まぁ、そうは言ってもロジックと現実の間には100万光年の開きがあることは、私も理解しています。だから、フレミーをチアノーゼにさせながら、それでも彼女に訴えさせてみました。
「戦争って、人の行いそのものだから……」

 

 戦争を美化するつもりはないのですが、残念ながら私には、戦争を無くす方法が思い浮かびません。
「誰も死なない戦争で、自国の敗けを認めることはできますか?」
 この問いに、全ての人が「是」と答えられない限り、戦争は無くならないのですから。えっ、私ですか? 今のところ「是」とは答えられません。ごめんなさい。

 仕方が無いのであの方の台詞で本論を締めたいと思います。
「悲しいけどこれ、戦争なのよね」
 そういう台詞がこの世から無くなることは……恐らくないのでしょう。悲しいけど、これ。

 

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うちの弟が真正のバカであると判明した件について

うちの弟(49歳)が真正のバカであることが判明した。

 

何でも

「50近くになって、食うために働くだけの人生でいいのか」

「もっと自分らしく生きる道があるのではないか」

と悩み始めたらしい。

 

いや、気持ちは分かる、弟よ。が、50にもなってそんなことを言うから「真正のバカ」と言われるのである。そんな問いは20代までの間に終わらせておくものであろう?

 

確かに、人生折り返しはもう過ぎた。そして、自分は何を成したのかと自問すれば、胸を張って応えられるような何者をも持ち合わせてはいない。得も言われぬ焦燥感に駆り立てられる、その心情はよく分かる。何より弟よ、兄は君より2年長く生きているのだ。

 

だが、そんな悩みに答えなど無いことを知っているのが50の男というものである。あるいは、そんなことを悩むような時間すら残されていないのが我々50代を生きるものである、とも換言できる。

 

話は簡単。

「持ち合わせがあれば好き勝手にすればいい」

「持ち合わせがなければ、食うために働く」

それ以上でもそれ以下でも無いのが現実である。

(あぁ、他には「持っているパートナーを見つける」道もあって、弟には随分前に提案したことがあるが、却下されたな...)

 

そう再理解した上で、それでも現在は色々なことに手が届きやすくなっているのだから、色々と試してみたらいい。

 

移住してスローライフをおくりたければ、まずは週末農業やDIYから始めてみればいい。文化的な活動をしたければ、今はネット上に発表の機会などいくらでもある。自作の何かを販売してみたければフリーマーケットだってあるし、お金を集めたければクラウドファンディングに頼ってみればよい。

 

要は、悩んでいる暇があれば、考えろ、体を動かせ、手足を使え、以上。50代にとって最も貴重なものは時間かもしれない(まぁ、これは全ての世代に共通ではあろうが)。

 

いや無論「食っていけるか分からない」というのが悩みなのは分かっている。で、「食っていけない」と判断したから今の生活がある訳で、まぁそれだけのこと。そして、「自分らしさ」を実現して食っていけるのは一握りの才能のある人間だけで、多くの凡人には叶わない夢なのである。

 

こういう悩みを、筆者は「リベラルの弊害」と理解していて、筆者がリベラルを嫌う所以である。

 

そもそも「自分らしく生きる」なんて言葉、知らなければそんな悩みは無かったはずなのに、今や弟は、そんな叶いもしない言説に惑わされている。「やりたいことをやる」なんて簡単に言うけど、多くの凡人にとって最大の悩みは「自分のやりたいことを見つける」ことではないだろうか。10代の頃に「自分らしさ」を見つけられなかった凡人が、50を手前にして急に「自分らしさとは何か」と悟りを開くことなど、そうそうないだろう。悟りを開くこと、それもまた一種の才能なのだから。

 

それを、「人権」だの「民主主義」だの宣って、挙句の果てには「自分らしい人生」である。神様や王様が奪った「人間が本来持っている権利」を取り返そう、という運動の「『王様』を『資本主義』」に「『権利』を『自分らしさ』」と置き換えれば、まことに同じロジックではないか。Fight For Freedomは永遠に続く(つまりFightは終わらない)のである、リベラルにとって。

 

「知らなければ」という論点で少し話を拡げると、アフガンの女性も同様であろうと筆者は感じる。タリバンが女性の権利を脅かしている、などと言っているが、その言説は正しいのだろうか。かの地の歴史・文化・宗教・伝統を無視して、パリ平野の平等思想を押し付けた結果、たったの20年間だけ「女性の権利」とやらに意識が向いた。それが元に戻っただけなのに、「タリバンに脅かされる」と感じてしまう。今や「女性の権利」を知ってしまったが故に。もし並行世界が存在したとして、西欧の文化を押し付けられなかったかの地の女性と、この世界線上に存在するかの地の女性と、どちらが幸せだったのだろうか。どちらの状態が「より正しい」と言えるのだろうか。

 

さて、うちの弟に戻る。「食うために働くだけの人生」について悩んでいるようだが、彼は肝心なことを忘れている。このコロナ禍にあって、今日食べるものにも困っている人達がいる、という事実である。彼らの存在を忘れて「食うために働くだけ」等と言っていたらバチが当たるというものである。

 

「今日、食うことができること」

「今日、食わせてくれる人や会社・世間様があること」

これらに感謝し、これらにご恩返しをする、という大事な部分を、我が弟ながらすっかり忘れてしまっている。こういう保守的な(筆者はこれこそが保守の原点であると理解している)思想を大事にすることこそが、分別のある、50男の立つべき位置ではないだろうか。

 

チャーチルが言ったとか言わなかったとか、所謂「若くしてリベラルでなければ学びが足りない、老いて保守でなければ優しさが足りない」とか云々。うちの弟が50近くにもなって「自分らしく」などと悩んでいることを「真正のバカ」と筆者が評する所以である。

 

その上で、まずは何か試してみたいのであれば、今は色々な環境が整っているのだから、試してみたらよい。それをリーンスタートアップと言っても、アジャイルと言っても構わない。思えば、我々が子供の頃、昭和の人生設計はウォーターフォールであった...それが21世紀も20年が過ぎ、今や人生さえアジャイルに開発できるのかもしれない。Viva Democracy!!

 

昨日はうちの弟の49回目の誕生日であった。来年になれば四捨五入して100歳になる訳で、まぁあと1年、せいぜい悩むがよい。Happy Birthdat!

女系天皇に関する私見

筆者は女系天皇に「消極的」賛成である。

 

「消極的」の意味は以下

①他に選択肢が無い場合には、断絶するよりベター

②よく考えると、皇祖神は女神様

③歴史を振り返ってみると、「男系」は何となくあやふや(継体天皇

④「日本」の「天皇」は女帝から?

 

①は文字通りの意。従って、現に悠仁親王殿下がおわす限り、今上陛下のご子孫に皇統を限るべきだとは考えていない(今上陛下のことは心よりご敬愛申し上げているけれども)。その上で、仮に親王殿下あるいはその系統がその次に皇位継承できない場合になるのであれば、愛子内親王殿下あるいはその系統のご即位を考慮する前に、戦後臣籍降下された旧宮家から立太子して頂くことを考えるべきであろう、とは考えている。

 

②以下は、それでも「女性」しか残らなかった場合について。断絶させるくらいなら「女系」を受け入れるのだけれども、その際の「納得」の仕方。単に「仕方ない」よりは多少は積極的な理由を挙げているつもり。

 

②も文字通り。皇祖神は天照大神という女神様であるという。何のことはない、天皇家の最初は女性だった、と理解することにしている(尤も、誓約の辺りはややこしく、実父は素戔嗚尊?なのかもしれないけれど...)。

 

③はとっても重要。第26代継体天皇は周知の通り、第15代応神天皇の5世の孫、ということになっている。がしかし、応神天皇から継体天皇に至る男系の系図記紀では省略されている(つまり、継体天皇は男系で継承していないかもしれない)。一方で継体天皇の后は、第24代仁賢天皇の皇女(手白香皇女)であり、その間に生まれた第29代欽明天皇が現在の皇室の直接の祖につながる。以上より、少なくとも記紀編纂当時の支配者階級は、男系(継体天皇)の系図を省略しても、女系(手白香皇女)が繋がっていればOK、と考えていた(男系女系並制)と考えることはできそうである。

 

④はほとんどこじつけなのだけれども、「日本」国の「天皇」号は天武天皇あるいは持統天皇の時代に始まるとされる。すなわち、それ以前は「倭」国の「大王」であった。それを唐制に真似て称号を変えたのであるが、これがもし「持統天皇」が最初の天皇であれば、「日本国天皇は女系から始まった」と言っても嘘ではないかもしれない(ちょっとご飯論法っぽくもないけど)。持統天皇には自分の子孫に皇位を継承させる意図があったと言われるが、③と同様、当時はそのような(女系による)継承もまた認められていた傍証と言えるかもしれない。無論、初代を神武天皇から数えて今上陛下は第126代であらせられる訳で、持統天皇から数えていないことは承知の上での、まぁ、納得するための理由づけ。

 

ところで、内親王殿下が駆け落ち(?)に近い形でご結婚される等との報道に触れる度に思うのである。まぁ、これまで皇室の歴史には様々な事例があって、臣籍降下されて幸せだった方もご不幸な目に合われた方も、男性女性問わずいらっしゃるのである。源氏物語など、平安の世はさぞやと思うばかりの自由恋愛横行のご様子で、ご本人のご意向で皇室を飛び出したその後のことなんて、周りがとやかく言うものでもない、と思う。一方で「ご本人の意思を尊重して」なんて大仰に捉える必要もなく、単に Let It Be に過ぎぬのであれば、「どうぞお幸せに」と言うだけである。

 

ただ一点、第59代宇多天皇のように、臣籍降下された後で皇位に就かれるケースもあるので、K氏が将来外戚として振る舞う可能性が残るところは、感情的に反対(そこに論理的理由はない)。だから、そうならない前に今上陛下のご子孫に皇統を戻して頂く余地を残しておくためにも、女性宮家の創設には賛成。つまりは創設のタイミングと法制で、過去に臣籍降下された女性には宮家を創設させなければ...かなと思う。

 

だって、「そうなったらその時考える、今は親王殿下優先」という男系男子原理主義者の言うところに従うと、「その時」に皇籍復帰させる範囲によってはK氏が...なのである。一応、そのための布石として、親王殿下への継承を優先させつつ、嫡流を今上陛下流に戻す道を残しておきたい、と思うのである。以上が、現時点で女系を「消極的」に認める理由。

 

因みに、皇統を継ぐべき男系男子を増やすための別の策として「皇室男性には女御・更衣(=お妾さん)を認めるのはどうか?」と家人に言ったところ、「そんなのあり得ない」と即答であった。まぁ、そうだわな。女性は子供を産むための機械ではないのだから。でも本当は、それこそが血筋を残すための工夫であり、それでも何度か絶えかけたのではあるけれども...ダメよね?

レジ袋

とあるお店でテイクアウトをした時のこと。

 

レジ袋をもらおうと思って「レジ袋もお願いします」と申し出たところ、店員さんから「ビニールの袋と紙袋と、どちらにしますか?」と問われたので、レジ脇の価格表らしきものに目をやったのだが、そこには次のような記載があった。

 

・ビニール袋(ロゴ無):5円

・紙袋(ロゴ付き):12円

 

???あれ?

逆ぢゃね???

 

いや、もちろん紙袋の方がコストがかかるのは理解しているのだけれど、元々こういう袋はお客様へのサービスで無料で渡していて、「ロゴ付き」ってお店の宣伝になるからタダでも良し、という建付けだったはず...

 

それが、レジ袋の有料化に伴って、気づいたら紙袋まで有料になってしまったのだけれど、それでいいのだろうか?単に、これを機にコストを回収しようという発想でしかないような気がして、そういうのは客商売としてどうなの?という疑問。

 

そもそもビニールのレジ袋だって、生分解性があったりバイオマス由来の素材であれば有料化の対象外だったはず。そういう努力をしないで有料にしているだけなのは、企業努力が足りないのでは?

 

よく考えてみれば、法には「法の精神」とか「法の趣旨」とかいうものがあるはず。確かに有料化すれば適法ではあるのだけれども、法の趣旨は「ビニールのレジ袋が環境に与える負荷を低減すること」であるはず。それならば、単に有料化すれば済む問題ではなく、企業側がレジ袋の素材を見直すことこそが、法の趣旨に適していると考えるべきであろう。

 

無論、単に企業がコストを負担すべき、と言っているつもりでもないけれど、やってる企業もある訳で、例えば次の比較。

711 vs AON

YDB vs YMD

前者はレジ袋が無料で、後者は有料。同じ業界だって、やってるところとそうでないところがある。

 

そして、この2者(2社)の比較には、面白い共通点があって、それは価格表示。

税込表示 vs 税抜表示

 

結局、こういうところにそれぞれの企業のお客様に対する態度というのが現れるのではないだろうか。理念とかビジョンとか、いくら美しいことを謳っていたとしても...

 

ちなみに、

 

私たちは、お客さまに信頼される、誠実な企業でありたい

vs

お客さまを原点に平和を追求し、人間を尊重し、地域社会に貢献する

 

だそうである。尚、後者はレジ袋有料(=素材変更なし)...

5G に見る Hi-Vision のデジュヴュー

三十年近く前のことであるが、筆者は某家電メーカーに在籍していて、某TV工場に勤務していたことがある。某メーカーは、確か「ハイビジョン推進協会」とか何とか言う、郵政省だのNHKだのが主導する業界団体に所属していて、筆者の在籍していた部署の先輩(というには当時新卒社員だった筆者からは年齢が遠い部長待遇だった方)がその団体を担当していた。その先輩には色々と教えて頂いたし、たまにはその団体の開催するセミナーなどにも出席して勉強する機会等を頂いていたのだが、今考えると大変有難いことであった(感謝)。

 

さて、そんな勉強会のとある一コマで、こんなことを言っていた記憶がある。曰く

 

「TV規格のモノクロからカラーへの移行は消費者に大きなインパクトを与えたので、消費者には買い替えの強い動機があり、カラーTVはすぐに普及した。一方 Hi-Vision は、現行の NTSC に比較すれば各段に画質が向上するとは言え、現状のカラー放送で消費者は満足してしまっているので、カラー移行時のような強い動機を消費者に植え付けることには成功していない。これが Hi-Vision が普及しない大きな原因であり、今後のs課題である」云々...

 

で結局(筆者の見るところ)Hi-Vision(とは今や言わなくなってしまったけれど)を普及させたドライバーは、地上波アナログ放送の終了(地上波デジタル放送への強制的移行)であった、と筆者はみている。確かに、今の Hi-Vision 画質に慣れてしまった目で以前の NTSC 信号を見るとその画質の酷さに驚くのではあるが、とは言え、移行しない前、すなわち Hi-Vision に目が慣れていない時点では、NTSC で充分だったのである。4k、8kの普及が進まない所以でもあろう。

 

そんなことを、5Gを見ていると思いだした。5Gに慣れてしまえば4Gには戻れなくなるのかもしれないけれど、現時点で必要性を問われると、答えに窮す。5Gは高速大容量・低遅延性・多同時接続性がウリなのだそうであるが、それを要するアプリケーションが思いつかない(せいぜい、遠隔高画質監視と遠隔操作、例えば遠隔手術や遠隔高速移動体操縦、等くらいである)。少なくとも、一般の企業(就中、中小企業)にとって必要な(無ければ会社経営にとって致命的な)アプリケーションは思いつかないのである。

 

あるいは一般消費者にとって、動画のダウンロード時間が短縮されたところでストリーミングで見れば関係ないし、スマホで見ている以上、これ以上の画質は必要無さそう。4k、8k大画面でストリーミング...?まずは4k、8k受像機の普及が先であろう。高速回線により動画が途中でフリーズするようなストレスからは解放されるくらいか?

 

例えば昨日参観した展示会。とあるブースでは「AIエッジ × 5G」なんて謳っていたのだけれど、この概念は矛盾しているのではないだろうか。すなわち、エッジコンピューティングが発展するのであれば高速回線は不要だし、高速回線があるのであればサーバ側に処理させればコスト面でも効率面でも横展開の面でも都合がよいではないか。そんな疑問を出展社の説明員に投げかけてみたのだが、残念ながら明確な(筆者の納得し得る)示唆は得られなかった。

 

あるいは他のブースでは、5G 回線を利用した映像送受信のデモを行っていた。ところが、送信側カメラ - 受信側モニタ間で甚だしい(秒単位の)遅延が生じていたのである。出展社の技術者の方に聞いてみたところ、次のような回答であった。すなわち、インターネット回線の遅延(必ず発生する)とエンコーダ/デコーダの遅延(必ず発生する)であった(あと恐らくは、撮像/描画の遅延もあると思われる)。5Gがいくら低レイテンシーを謳ったところでそれは無線区間だけの話であり、システム全体ではそれを実現できないのである。恐らくはアナログ専用線に勝る速度は出せないのが必定であろう。

 

という訳で、5Gを本当に普及させようと思ったら、総務省が電波帯域の4Gへの開放を中止して無理やり5Gに移行させる以外の方法が無いのではないか、等とずっと思っていたのである(かつての Hi-Visionと同じように)。そしてその考えを改めるヒントを得ようと思って展示会を参観したのだけれど、残念ながら基本的な考えはそこから全く変わらなかった。

 

で、それはきっと筆者の頭が悪くて且つ固いからであろうと思って自分なりに改めて考えてみた結果、たどり着いた結論はコレ。

 

「5G はデータのオブジェクト指向化」

 

まぁ正直、言ってる筆者本人もその意味を10%くらいしか理解していない。だから論ずるにも足りないのは承知しているのだけれど、一応頭の体操と思っている。

 

前提として、データと情報の違いがある。すなわち「データ」とはある一定の事実でしか無い一方、「情報」とは受け手の思考や行動を変化させ得る「データ」のことである(と筆者は理解している)。

 

例えば天気予報で「今日は雨」と言われた時、「今日は雨」は単なる「データ」に過ぎない。ところで、外出する人に取っては傘を持っていくか判断し実行するので、「今日は雨」は「情報」になり得る。一方、外出する予定も洗濯物を干す予定も無い人にとっては、「今日は雨?何ソレ関係無いし」なのだから「情報」足り得ない、という理論。

 

「データ」と「情報」をそのように分けて捉えた時

 

4G以前の世界:情報を送受信する

5G以降の世界:データを送受信する

 

と考えることはできそうで、これは次にように言い換えることができそうな気がする。

 

4G以前の世界:戻り値を返す(戻り値は戻すべきで、返すのは返り血?)

5G以降の世界:オブジェクトを渡す

 

とか、あるいは

 

4G以前の世界:値渡し

5G以降の世界:参照渡し

 

とか考えると「情報の受信者」の選択結果が「データの送信者」にも何らかの影響を及ぼすことができると仮定すれば、5Gはある種のセンサを実現し得る、とも考えることができる(これは例えば、離れた位置にある2つの対称性を持つ粒子の、片方を観測することで対の状態を知ることができる、という性質に喩えて考えている。低レイテンシーの特性を活かすことにもなろう)。

 

まぁ、「だから何だ?」と言われたらやはり「いや、自分でも何を言ってるのかよく分からない」と正直に答えるところではあるけれど、折角展示会を回って得た結果が「面白くない」では面白くない。何かを否定をするのは簡単だけど、自分が何かを否定した瞬間に、「それを建設的に考え直してみたらどうなるか?」って問い直すべきだ、と個人的には考えている。だって、その方が面白いから...

 

そのうち、こんな妄想がもう少し自分の中で昇華されることもあるかもしれない、と10%の期待を込めて。

勅使河原の予想<証明編その2>

夜中、ふとトイレにいきたくなって目が覚めた瞬間、大切なことを思いついた。昨日の「勅使河原の予想<証明編>」では、ひとつ漏れがあったのである。あぁ、まぁ大したことではないのだが、トイレに行きながら考えてみた。

 

勅使河原の予想

全ての 3以上の自然数は、重ならない 1 と素数の和である」

 

勅使河原の予想<証明編>

「1から n までの区間の全ての自然数 n1 について勅使河原の予想 T<n1> が成立すれば、1から2n までの区間の全ての自然数 n2 について、勅使河原の予想 T<n2> が成立する」

 

証明編では n と 2n の間に存在する素数 p(チェビシェフの定理)を用いて、2n - p を q とした時、q < n より T<n2> = p + T<q> として証明した。

 

ところが、(トイレで)良く考えてたみたところ、この証明には重大な漏れがあった。それは、n から 2n までの区間で最初に現れる素数 p1 と、n から p1 までの区間の全ての自然数に関する証明である。n から 2n の区間にある任意の素数 p を使って証明を行ったため、p1 それ自体を扱えなかったのである。

 

そこで、「勅使河原の予想<証明編>」に、次の証明を加えて「勅使河原の予想<証明編その2>」としたい。尚、「勅使河原の予想<完全編>」とか「勅使河原の予想<最終編>」でない理由については、フランスが第五共和制と呼ばれる所以と同じである。

 

token-t.hatenablog.com

 

  1. 1 から n までの区間の全ての自然数 n1 について T<n1> が成立すると仮定する
  2. n から 2n までの区間について、n の次に現れる素数を p1 とする
  3. 1 から n までの区間について、n より小さく且つ最も大きい素数を p0 とする
  4. r = p1 - p 0 となる自然数 r を想定する
  5. チェビシェフの定理に従うと r < p0 である(p1 < 2 * p0 より)
  6. さて、p0 は 1 から n までの区間にあり、r < p0 であるため T<r> は仮定により証明済である
  7. p1 = p0 + r であるから、T<p1> = p0 + T<r> となる
  8. p0 > r のため T<r> には p0 は含まれず「重ならない素数」を満たす
  9. 同様に n から p1 までの区間の任意の自然数 n2 について、r1 = n2 - p0 となる自然数 r1 を想定すれば、T<n2> = P0 + T<r1> となる
    QED

という辺りでどうであろうか。とりあえず、<証明編その2>で<証明編>の不備は補完できたと思う。

 

折角ここまで書いたので、筆者の特殊スキル「読んでいる文章を茅野さんの声に脳内変換」を発動して「勅使河原の予想」を癒しボイスで再生してみようと試みたのだが...無論変換はできているのだが、妙なノイズが混じっているようである。きっと昨夜みた「スライム倒して300年」(先週放送回の録画)の影響であろう。なにしろ昨夜からずっと頭の中が「ぐだふわエブリデー」なのである。そう、茅野さんは最高に素敵だけれど、悠木さんもいいよね。