茅野愛衣さんと靖国神社

筆者は声優の茅野愛衣さんのファンである。どの程度のファンかと問われれば、読んでいる文章を茅野さんの声に脳内変換する能力を保有している程度、と答えるであろう。尤も筆者のこの特殊スキルはあくまで脳内変換であるが故に、そのスキルレベルを他者に判定・評価してもらうことができないことは残念至極なことではある。

 

そう言えば今クール放送の「裏世界ピクニック」。キャラ絵を見ただけで「このCVは茅野さんに決まっている」と断言し、事実その通りであったために「筆者の茅野さん愛、ここに極まれり」などと家人に伝えたところ「それは音監さんとシンクロしただけではないか」などと鼻で笑われる始末であったのだが。

 

さて、茅野愛衣さんは昨年、デビュー10周年を期して動画とSNSを公開されるようになった。それまでアカウントは存在しても全く発信されなかった10年間であったため、ファン待望のコンテンツ登場というところであった。

 

その動画...何やら炎上してしまったらしい。筆者の見ない前に削除されてしまったため不詳ではあるのだが、どうやら靖国神社に参詣した動画が中国方面のファンからバッシングを浴びてしまった模様。

 

最近は中国企業がスポンサーや制作会社であることが多くなったアニメ・ゲーム業界において、大陸方面での炎上は商売的に死活問題なのだと思う。ご本人にはお気の毒なことではあり、ご無念なことであろうとは想像するが、これからも安定的に露出してその癒しボイスを聞かせて欲しいと、ファンの1人としては思うところである。

 

ところでその靖国、そうは言ってもそろそろ何とかならないものであろうか。

 

そもそも、政治家(やメディアが)8/15に拘るのが問題なのであろうと筆者は思う。何故8/15?と筆者はかねてから疑問に思っているのだが、大東亜戦争の戦死者を対象とするのであれば9/2であるべきだし、そもそも東京招魂社は大村益次郎(敷地内に大きな像がある)の献策によるもの。戊辰戦争に遡り、国家のために命を落とした人々を祀る目的で建立された神社であって、A級戦犯とか何とか、そんなものはずっと後世の出来事であるのだから、8/15にフィーチャーすることは話をややこしくするだけなのではないだろうか。

 

いや疑問どころか、むしろ積極的に「首相は靖国神社に参詣すべきである」と筆者は考えている。

 

かつて「星界の紋章」というSF小説の中で主人公が語っていたことである。曰く「葬式は死者のためではなく、生者のために行う」のである(原文はちょっとニュアンスが違うけど)。

 

首相は時として自衛官に「死ね」と命じることがある。それは戦時のみならず、災害救助時にあっても同様である。そして「死ね」と命じられれば、それを呑まなければならないのが自衛官である(無論、「死ね」などという直截的な命が令される訳ではないが、例えば、自衛官に犠牲が出るリスクを承知の上で民間人の救助を令することはあり得ることである)。

 

その時、自衛官の脳裏をふとよぎるものもあろう。自分の死後、自分の家族はどうなるのか。自分の子供達が衣食に困るようなことはないであろうか。子供達の名誉は尊厳は守られるのであろうか。

 

この疑問に「何も心配することはない」と言って背中を押すのが首相であり指揮官の役割であろう。ところで、(時としてはコロコロと変わるような)首相が口先でそう言ったところで、隊員達は何の憂いもなく死ぬことができるのであろうか。無論、どうあっても「何の憂いもない」などという境地にたどり着くのは非常に難しいことであろう(あるいはそう書くことは隊員のみなさんに対する礼を失する態度ではあろう)が、隊員達にそれを具体的に行為として表す方法のひとつが、靖国参拝なのだと思う。

 

あるいは仮に、世論や諸外国の圧力で政治家が靖国参拝をやめることがあれば、国家の命により命を捨てた隊員達の、その国家による自分の家族への補償に対する疑心は深まるであろう。世論の動向によって、遺族年金の多寡が左右されるかもしれないのである。一方で、世論や諸外国の圧力に屈せず、自身を盾にして死者を弔う姿を見れば...

 

だから、靖国神社には戦争とは無関係に、無論大東亜戦争とは無関係に、現役の自衛官のためにこそ参詣すべきである、と筆者は考えるのである。そしてそのことを国民と諸外国に理解を得るために、政治家はきちんと弁を尽くすべきであると考える。だってその自衛官は、もしかしたら貴方の国の災害救助で命を落とすかもしれないのですよ、と。

 

蛇足ではあるが、政教分離について誤解のある向きに一言だけ。憲法第20条「...国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。」の宗教的活動について。「無宗教の追悼施設」等と宣う御仁もいるようであるが、そもそも「追悼」する時点で宗教的なのではないか、という疑問...

 

追悼というのは、死者には魂があって、生者から死者に語り掛けることが可能である、という前提が無ければあり得ない行為であろう。それはもう既に立派な宗教である。宗教の3大構成要素というのがあって、教祖・経典・教会がそれだそう。国会という教祖が法律という経典を作って国立追悼施設という教会を建立するのであれば、まさしくそれは宗教に他ならない。少なくとも、教祖も経典も不分明な日本神道よりは、よほど宗教的であろう、と筆者は考える。

 

無宗教のアーブ達が「生者のために葬式」を執り行う所以である。