我は詩人なり

我は詩人なり

我思う、ゆえに、我は詩人なり

 

とか言う詩が、小学校の国語の教科書に載っていたように記憶している(尤も、家人に聞いたところ、「そんなの知らない」と言われたので筆者の妄想かもしれないが。そう言えば、詩と散文の区別がつかなくて=これは未だについていないのだけれども=、学校の宿題で最も困ったのが「詩を作ってきなさい」だったように記憶する)。

 

当時は意味が全く解らなかったのだけれども、何故かこの詩だけはずっと頭の片隅に残っていて、そうして今は、少しだけ理解できるような気がしてきた。無論、学校教育で問われるところの「この時のこの詩人の気持ちを答えなさい」という、文部科学省の学習指導要領に定められているであろう「正答」とは異なるであろうことは承知の上で、筆者なりの解釈に過ぎないのではあるが...

 

思うに、医者とか弁護士とか会計士とか、およそその職につくことに資格が必要になる職業というものがある。そして、一般の企業であるとか役人であるとか、その組織の成員になるための選抜過程を経る必要がある職業というものがある。一方で、詩人に資格や選抜過程が必要か、と問われれば、恐らくその答えは「否」であろう。

 

つまり「詩人」とは詩を詠む人のことであって、それ以上でもそれ以下でもない。無論「売れている詩人」と「どこにも需要のない詩人」の別や、「異才の詩人」と「凡庸な詩人」の別はあろう。しかし、誰にも求められずとも、そして、例え後世に語られるような作品を遺せずとも、詩人は詩人なのである。但し、自らを詩人と認め、詩作を行えば、ではあるが。だから

 

我は詩人なり

 

と唱えるだけで、既にその人は詩人なのであろう。

 

時代は益々「個」の時代になりつつある。組織や資格で喰っていける職はこれから益々淘汰され、個人は個のスキルを磨かなければならない時代になっている。いずれ

 

我はビジネスマンなり

 

と、誰もが宣言することを求められる時代になるのであろう。但し、詩人に売れない詩人がいるように、喰えないビジネスマンも出てくるし、スキルによる格差が拡大することは否めない。その意味では、例えば「同一労働同一賃金」などというフレーズは、労働者を守るようであって、その実、格差拡大装置に過ぎないということに気づく。なにしろ

同一労働同一賃金」と

「賃金と労働は比例する」と

「成果が少ないものは賃金が下がる」

は同義であろうから。全く、その昔 Dr.ワインバーグの教えてくれた「ホローマーの法則」の何たる正しいことか...

 

さて、恥ずかしながら筆者は未だに

我は〇〇なり

の〇〇を探し続けている...

 

そんなことは10代のうちに済ませておけばよいものを、とも思うが、人生とはそんなもんだ、とも言えるかもしれない。重要なことは、恐らく筆者の世代(と下の世代)には、定年とか年金とか隠居とか、人類が世代交代による社会進化を遂げるのに必須としてきた装置そのものが用意されず、一生職業人として生きていかねばならぬであろうことが、ある程度はっきりとした未来予測であることだ。そして大変残念なことに、肉体的にも脳力的にも衰えた状態で、より若い世代と競争しなければならないことである。

 

しかし考えようによっては「人生を二度楽しめる」と捉えることもできよう。職業人としての最初の40年の人生を「ビジネスマン」として過ごした後、第二の40年を「詩人」として生きていくことも可能になる時代、と考えれば、少しお得な気もする。「人生は一度きり」ではなくなってしまった世界の何たる素晴らしいことか。

 

とりあえずのところ筆者は

我は作家なり

と宣言して、小説を書いてみた。まぁ、売れない作家ではあるのだけれど...