1人当たり生産性
日本は1人当たりの生産性が低い、とかって説をよく聞く。
生産性を上げることで日本経済を成長させる、とかも...
???
「生産性」ってのは比率のことなんだから
生産性 = アウトプット / 人数
ってことなんだと思う。
それって単純に「人数」を減らせば生産性が上がるのであって、機械化やAI化による生産性向上って、つまりはそういうこと(=解雇によって減じた人数分の生産をA機械に委ねてアウトプット総量を維持する=)に過ぎないと思う。
そうそう、1人当たりGDPなんてのは日本の場合、今のGDPを維持していくだけで、自然と上昇していくものである。だって、人口がこれから減っていくのだから。
雇用を維持したまま生産性を向上させることで「アウトプット」を増やすのが目的である、との反論もあろうけれど、そこには疑問がある。
「アウトプット」を増やしたところで、それは買ってもらえるの?
いくら供給を増やしても、需要が変わらなければ単価が下がるだけ。
「生産数」は増えても「生産高(金額)」が変わらなければ、生産性が向上したとは言えないのではないだろうか?
筆者はこれを「生産性の罠」と呼んでいる。
「中小企業は非効率だから、複数の中小企業を合併させて大企業にすべき」
という言も同様だと思う。
例えば今ここに、10人雇用している10社があるとする。これら10社はそれぞれ非効率なので(例えば、10人しか社員がいないのに、人事担当者が1人づつ=合計10人=いる)、合併させることで効率化する、という...
結果、10人の会社10社が統合されて、80人の大企業が1つできあがる。ん???
20人が職を失うことで(重複する仕事を統合整理することで)効率化が図られた。生産性向上って、要はそういうことだと思う。
これらは「サプライサイド」から議論している限りこの「生産性の罠」に陥るのを、みなさん故意に(?)無視しているとしか思えない。
これは筆者の持論なのだけれど、損益計算書の一番上に「売上高」があることは重要な示唆であって、企業業績の全ては「売上」から始まるのである。「コスト削減」とか「利益率向上」とか、須らくまずは「売上」があって、そこから先の議論である。
同様に、経済もまずは「需要」があって、そこから先の議論のはず。需要が増えないまま比率だけ弄れば、結果は意図したことと反対の方向に向かってしまう。
決して筆者はケインジアンでは無い(従って、有効需要創出のために政府支出を増やすべきだと考えているのでは無い)が、有効需要創出という議論はもっとなされるべきだ、と思う。
そうでないと、「姥捨て山」が復活してしまう。ところが日本は高齢社会(高齢「化」ではない)下の民主主義国家なので、実際には、票の大部を占める「姥」は捨てられない。結果として捨てられるのは、票を持たない(あるいは投票行動を起こさない)若年層である。
上はちょっと議論が飛躍(姥捨て山は需要を減少させる)しているようだが、要はこういうことである。経済が活性化し公共の富が蓄積されれば非労働者を食わせることができる一方、公共の富が枯渇すれば、最早「働かざる者喰うべからず」になる。公共の富は私の富(の一部)の集合体(税収)なのであるから、まず最初に私が富まなければ公共は富まない。私が富むためには売上高(金額)が向上しなければならない。「売上高(金額)=売上数×単価」なのであるから、売上数が増えなければならない。売上数が増える(単価一定の元で)ためには需要が増えなければならない。
無論、上は必要条件であって充分条件ではないのであるが、上の議論をするためには必要条件を提示するだけで充分であろう。いずれにせよ、現下の日本経済には、需要創出のための政策が求められていると考えるのである。
ところで、ケインジアンではないからと言ってマネタリアンでも無い(デフレ下においては金融政策は機能不全に陥いることは、アベノミクスが証明してしまった)。筆者はただ、ハイエクがもっと見直されるべきだ、と考えている。