OEM3.0

2007年か2008年頃のことだと思うので、もう15年くらい昔の話になるだろうか、掲題である「OEM3.0」というコンセプトを筆者が思いついたのは。

 

OEMという略語はご承知の通り Original Equipment Manufacturing の頭文字である。で、新聞等でこの用語が使われる時には「OEM(相手先ブランド供給)」等と注釈が付けられていたものであった。そして筆者は永らく、この注釈には疑問を抱いていたのである。「相手先」「ブランド」「供給」???Cusomer’s Brand Supplying 略して「CBS」だったらまだ判るのだが、何故「OEM」???

 

困った時はWikipedia先生に教えを請うのは、昔も今も変わらない。まぁ、もしかしたら当時とは少し表現が異なっているのかもしれないが、Wikipedia先生は筆者に優しく教えてくれたものである。OEMは何故OEMなのか?

 

「1950年代にIBM社で造られた造語とされ、1960年代後半からDEC社の制御用ミニコンピュータの販売対象の業界の定義としてアメリカ合衆国OEMという言葉が次第に使われ始めたと考えられる。

(中略)汎用性のあるコンピュータをコンピュータ製造業者A(以下「業者A」)から購入した別のコンピュータ製造業者B(以下「業者B」)がそこで独自の技術的(ハードウェアやソフトウェアなど)価値を付け加え、独特の、または特定(汎用の反対の意味)の機能を持つ製品に造り上げ、業者Bは付加価値再販業者(VAR)としてその製品を市場に出した製造者を指した(後略)」

(以上、Wikipediaより抜粋)

 

なるほど、IBMのコンピュータをDECが販売する際に、DECがOriginal Equipmentを付け加えて差別化した商品を作り上げたからOEMと言うのか、ふむふむ...そしてその時、筆者の頭に天啓のように閃いたのが「OEM3.0」というコンセプトであった。そう、OEMのそもそもの意味であるところの付加価値再販のことを「OEM1.0」と定義し直してみよう。そうすると「相手先ブランド供給」はさしずめ「OEM2.0」とでも言うところであろうか。1.0から2.0に進化したのだから、訳語が変わってしまっても仕方あるまい。そしてこれから世界を動かすのが「OEM3.0」であるに違いない。これが当時筆者の考えたところであった。

 

「OEM3.0」の話をする前に、ここで商品バリューチェーンに登場するプレーヤについて定義しておきたい。まずは「投資家」がお金を持って現れる。「投資家」は「製造業者」に投資し、「製造業者」はその資本を元に工場を設立し、設備を用意する。そして原材料を購入したら加工を行い、完成した商品を「販売業者」に卸す。そして「販売業者」が仕入れた商品を「消費者」に販売することで、このチェーンは終端する。ざっとこんなモデルをベースに考えてみる。

 

このモデルに登場するプレーヤの関係は一方通行である。仮に図示するならば「投資家」>「製造業者」>「販売業者」>「消費者」となるであろう。そしてそれぞれのプレーヤは、ここが重要なポイントであるが、固有の役割を果たすことのみが期待されている。「投資家」はカネを出し、「製造業者」が製造する。「販売業者」は販売し「消費者」は消費する。これが「OEM以前」の世界であった。

 

「OEM1.0」の時代、このモデルに異変が発生した。「販売業者」が従来の役割である「販売」に加えて、「製造」の一部までをも手掛けるようになったのである。Original Equipmentの実装という「製造」を。ただし、ここでは「製造業者」>「販売業者」の関係はまだ変わっていない。この関係に変化が起こるのが「OEM2.0」の時代である。

 

冒頭紹介した筆者の疑問、何故「OEM」の訳語が「相手先ブランド供給」になったのか。その答えはここにあった。すなわち「製造業者」と「販売業者」の関係が、「販売業者」が「製造業者」に「製造」を「委託」する関係に変化したのである。所謂プライベートブランドの始まりである。そしてPB商品のPQCD、すなわちProduct、Quality、Cost、Deliveryは、「販売業者」がこれをコントロールするようになった。「製造業者」>「販売業者」というかつての一方通行の関係は、今や「製造業者」<>「販売業者」という双方向のものに生まれ変わったのであった。これが「OEM2.0」である。

 

そして2000年代に入ってこのプレーヤ達の役割は、更に大きく変わることになる。そう、「OEM3.0」とは、プレーヤと役割が分離する時代なのである。

 

筆者がこのコンセプトに思い至ったのは、実はオバマ元大統領が民主党予備選に勝利したというニュースがきっかけであった。オバマ候補の対立候補であったヒラリー・クリントン氏は、その知名度と、何よりその集金力(何しろ元大統領の奥様なのだ)で予備選勝利間違いなし、と当初は目されていた。だが結果はご承知の通り。しかも驚くべきことに、選挙期間中の集金額ですらも、オバマ氏はクリントン氏に勝ったというのである。大口献金企業を多く抱えるクリントン氏に対してオバマ氏が採った集金戦略はインターネットの活用、今で言うところのクラウドファンディングであったと言う...

 

そう、インターネットが世界を変えたとしたら、それは「あらゆるプレーヤがあらゆる役割を担うことのできる」世界を作り上げたことにあろう。アマチュアとプロフェッショナルの間に本来あるべき障壁は、ベルリンの壁と同じ運命を辿ったのであった。

 

つまり「OEM3.0」とは、それまでは各プレーヤに与えられていた固有の役割を、誰でもが状況や選好に応じてどの役割でも選択して遂行することが可能になった世界なのである。かつては一部の「持てる者」しか果たすことのできなかった「資本家」の役割は、クラウドファンディングを利用すれば、今や一個人ですら果たすことが可能になった。3Dプリンタに代表される製造工程の民主化は、個人が「製造業」の役割を担うことすら可能にした。ECにより個人が「販売業者」として商品を販売するようになってから久しいことは言うまでもない。このように個人ですら「消費者」(これはOEM以前からその役割を果たしてきた)の役割のみならず、「販売業者」にも「製造業者」にも、「資本家」にすらもなることができるのが、「OEM3.0」の時代である。

 

この「プレーヤ」と「役割」の分離は、これから広範な分野・業界で次々と実現していくことであろう。PV(太陽光発電)やEV(電気自動車)が今や、大資本を必要とする原子力に替わる分散型発電所として期待されていることなど、その証左であろう。

 

実は十数年前の当時、某大学経営学部の松〇教授に「OEM3.0」のコンセプトを披露したところ思わず好評を得、もし文章にまとめるのであれば協力する、とまでの有難いお申し出を頂いたのであった。しかしながら実際のところ、いざ書き始めようとしたところそれは書籍にしてもせいぜい十数ページの分量にもならず、いつしか文章化計画は忘れ去られたまま十数年の年月が経ってしまったのであった。その間の社会の変化は目まぐるしく、また、その間個人的にも色々とあり、今更それは書き綴るほどのものでもなかったのではあるが、今日、とあることがあって久しぶりにこのコンセプトを想い出してしまった。それで、何か残しておくのも悪くはないと思い直して、とりあえず、簡単ではあるけれどもここに記すことにしてみたのが本稿である。あの時〇村教授は「傍証を集めて論旨を補強し、同時に文書全体のボリュームを増量するのであれば任せてくれ」とまで言ってくれたのだけれど、やっぱりこの程度の内容では、難しかったですよね...松村先生?

拙作「フレミングの法則」とウクライナ紛争の類似点

小説家になろうで公開している拙作「フレミングの法則 ~ 踊る赤髪の落ちこぼれ撃墜王~」の、その状況推移が現実のそれに意外なほどに近似している、と改めて思う今日この頃である。

 

レミングの法則 
~ 踊る赤髪の落ちこぼれ撃墜王 Dancing Maroon of the Scheduled Ace ~

https://ncode.syosetu.com/n6406hf/

 

そして恐らくは多くの日本人と同様に、一体どうすればこの戦争を終わらせることができるのか、と筆者も開戦以来ずっと考えている。しかしながら、TVで有識者達の宣う「こんなことは許されない」とか「巻き込まれる民間人が」等のコメントは、正直に言えば、いくらそんな言を挙げても意味が無い、とも思っている。

 

何故なら、戦争は政治(外交)の延長に過ぎず、戦争を終わらせることができるのは、外交(交渉)以外に無いのは明白なのだから。互いに相手を批難するだけでは、いつまで経ってもこの戦争を終わらせることはできないであろう。別にプーチン大統領の言い分に同意する訳ではないが、もっと相手の要求をきちんと理解した上で交渉のテーブルにつくべきだ、とは思う(終わらない方が視聴率が……等という野暮な突っ込みは、今は辞めておこう)。交渉とは、そういうものである。


緒戦は奇襲攻撃
現実:ロシアはウクライナに、巡航ミサイルを含む「特別軍事作戦」を発動
小説:パラティアはバーラタに、巡航ミサイルによる奇襲攻撃を敢行

 

攻撃側による開戦の理由
現実:ウクライナNATOとの接近を嫌気
小説:バーラタのリベラリオンとの軍事同盟を嫌気

 

攻撃側の要求
現実:ウクライナ武装解除、中立化
小説:バーラタのリベラリオンとの軍事同盟破棄

 

同盟国(友好国)の対応
現実:米国は直接関与を避ける
小説:リベラリオンはバーラタから駐留軍を撤退

 

停戦交渉
現実:開戦から約1週間後に開催(3/16現在、4回目の交渉中)
小説:開戦から4日後、1週間の休戦協定を締結(休戦期間終了後、戦闘再開)

 

進軍目標
現実:ウクライナ全土
小説:バーラタ全土

 

核抑止
現実:ロシア大統領は核に言及することでNATOの参戦を抑止
小説:バーラタ最高戦争指導会議は核に言及することでパラティアの核使用を抑止

 

防御側の基本戦略
現実:戦術的勝利を重ねた上で、有利な停戦条件を引き出す
小説:一戦して戦術的勝利を得た上で、有利な停戦条件を引き出す

 

無論、双方に相違点も多いのである。実は、西側諸国の一員として生きてきた筆者には、今回のロシアの作戦推移がプアに見えて仕方がない。我が同盟国であれば、もっと多量の巡航ミサイルと徹底的な空爆の繰り返しにより、今頃はとっくに制空権を握っていたことであろう。これが海洋国家米国と大陸国家ロシアの戦闘ドクトリンの差なのか、と慨嘆せずにはいられない。そして正直に言えば「ウクライナでおきている現実と筆者の想像する小説世界の推移が異なるのは、筆者が米国の戦争に慣れ過ぎたからである」として自分の想像力の欠如を慰めているところである。


地上軍
現実:ロシア軍戦車部隊が進撃し、地上戦が勃発
小説:両軍とも航空戦力のみが戦闘に参加し、地上部隊の参戦はなし

 

攻撃対象
現実:首都を含む市街地(占拠、支配)
小説:空軍基地に限定(制圧、無力化)

 

近接戦闘
現実:小銃発砲等の近接戦闘を含む
小説:視認距離外からの長距離ミサイル攻撃が中心


さて、現実のウクライナ紛争がどのように集結するのか、それは筆者の想像の及ぶところではない。互いの主張は今のところ平行線の模様であるが、つまりそれは、どちらかが妥協(自らの主張を放棄)しない限り交渉が妥結することは無いことを意味している。そして残念ながらそれは、今のところは双方の指導者の容れるところには無いようである。

 

一方で筆者の小説世界では、グレートエイトアイルズという第三者を入れることで妥結の可能性を提供した。すなわち、二者間では互いに直線的なゼロサムの状況にある交渉条件を、第三者を交えることで三角形に変形し、結果として相互に利のある形で終戦を迎えることができた。

 

その国制が民主主義であれ専制主義であれ、終戦協定にサインする指導者には国民に対する説明責任というものがあろう。民主主義の場合には民衆のため、専制主義の場合には専制君主のために、という違いがあるだけだ。その説明責任とはすなわち「自国の利を勝ち取った」という大義名分である。自国民に対して正当な理由をつけることができれば、指導者は互いに兵を収めることができるであろう。換言すれば終戦交渉とは、相手の指導者にその理由を与えてやることである。

 

終戦協定
小説:バーラタ-パラティア間の相互不可侵条約締結と、グレートエイトアイルズを含む三国間経済同盟の締結


願わくば我が日本政府には、真の意味において世界の平和に貢献して欲しいものである。

 

しかしながら相変わらずイミフなのは、巷間「ウクライナ」が絶対正義として理解されていることだ。

何故ウクライナ難民は受け容れられるのに、シリア難民は受け容れられないのか?
何故、ウクライナの子供のための募金は活発で、ロヒンギャの子供のための募金は忘れ去られているのか?
何故、NATOコソボには介入してウクライナには介入しないのか?

 

正直、大統領(指導者)の演技の差、しか筆者にはその差が思いつかないのであった。

最近の風潮について思うこと

是:宇にNATOが覇権を拡大すること
非:宇に露が覇権を拡大すること

 

是:ロシア政府機関へのハッキング
非:日本政府機関へのハッキング

 

是:宇選手がスポーツ大会で平和(注1)を訴えること
非:露選手をスポーツ大会に呼ぶこと

 

是:プーチン政権を倒そうとすること
非:ゼレンスキー政権を倒そうとすること

 

是:経済制裁(注2)を行うこと
非:戦争(注3)を行うこと

 

是:日本政府が宇に防弾チョッキを提供すること
非:日本政府が台湾に防衛装備を輸出すること

 

是:プーチン大統領を暗殺すること
非:ゼレンスキー大統領を暗殺すること

 

是:人道回廊(注4)を設置すること
非:民間人を盾にすること

 

是:宇が民間人に銃を取らせること
非:民間人に銃を向けること

 

是:宇に小火器を供与すること
非:宇に戦闘機を供与すること

 

是:宇が原発を稼働(注5)すること
非:露が原発を攻撃すること

 

是:核による相互抑止
非:露が核使用に言及すること

 

是:西側諸企業が露国内店舗を閉鎖すること
非:西側諸企業が中国国内店舗を閉鎖すること

 

是:日本政府が露政府を非難すること
非:露政府が日本を非友好国リストに挙げること

 

是:宇が原発保有すること
非:独が原発を稼働(注6)すること

 

是:宇難民を受け入れること
非:シリア難民を受け入れること

 

是:NATOコソボに介入したこと
非:露が宇に進軍すること

 

こういうマインドセットはいかんと思う

何故、「是」は許されて「非」は許されないのだろう??

ダブルスタンダードの極み

 

「西側の一員として」という理由しか無いのであれば、それは理由が無いことと同義だと思う。つまりそれは、単に立場の違いでしかないので、相手を納得させられない。そして相手を納得させられない理由をいくら並べても、それは理由を提示していないことと変わらない。


注1:平和とは戦争の無い状態であり、戦争とは政治の延長である
注2:経済制裁とは民間人を害する行為である
注3:戦争とは軍人を殺す行為である
注4:民間人が盾にされているから人道回廊が必要とされる
注5:原発稼働は被弾時のリスクを高める
注6:宇はポーランドに、ポーランドは独に電力を輸出している

ウクライナ紛争は世界史観を「長い20世紀」として書き換えるか?

「長い19世紀」という概念があるそうだ。フランス革命から始まって第1次世界大戦に至るまでの、約125年ほどの期間をそう言うらしい。『国民国家が成立して帝国として発展し、その帝国主義国家が世界を分割統治する時代』として一括りに捉えると、この世紀の期間は100年を超える、と言う見方である。

 

それに対して「短い20世紀」という概念もあるそうだ。こちらは、『2度の世界大戦を経て米ソ2超大国を中心に東西に収斂・分割された世界秩序が、ソ連の解体によって終焉を迎える』までのおよそ75年間を指すらしい。

 

さて、上の歴史観によれば1991年に始まると言う21世紀は、果たして「長い21世紀」なのか、あるいはまた短く終わるのか? 今次ウクライナ紛争が始まらない前までの世界史観にあっては、「21世紀」の位置づけは「短い20世紀」に続くものとしてその存在意義を問われていたことであろう。しかしウクライナ紛争後の世界史観は、筆者はこれが根本から書き換えられるべきである、と考えている。筆者の考える新たな世界史観の基本的な要目は、以下の3点である。

 

①「長い20世紀」は1914年に始まり、2022年現在、まだ継続している
②「長い20世紀」は『民族自決』の世紀と定義することができる
③「長い20世紀」は新たに起こる「21世紀」のムーブメントにより終焉を迎える

 

よく考えてみれば第1次世界大戦の引き金を引いたのは、オーストリア帝国内における『民族自決』運動である。また第2次世界大戦の結果として多くのアジア・アフリカ諸国は、『民族自決』の旗頭の下に独立を果たした。そしてソ連の崩壊は多くの民族の独立-と共和国の誕生-を呼び起こし、2020年代の現在においてもその潮流は止むことがない。

 

要するに「米ソ2超大国」という存在があまりにもインパクトが強すぎるため、この体制の誕生から崩壊までを「短い20世紀」と捉えていたのである。ウクライナ紛争前までは……しかし米ソによる世界の分割統治とは実はこの世紀の表面的なものに過ぎない、と見直してみれば、20世紀の実態をより正しく捉え直すことが可能になる。

 

つまり20世紀とは

「『普遍帝国』として統合された諸民族が『民族自決』を成し遂げていく過程」

として捉えるべきであり、換言すれば

「『民族自決』を抑え込もうとするあらゆる意思が失敗に終わった過程」

と捉え直すべきなのではないだろうか。これが掲題の意味である。


さてウクライナ紛争とは、ウクライナ旧ソ連『普遍帝国』からの『民族自決』であると同時に、ウクライナ『普遍帝国』内におけるロシア系市民の『民族自決』と捉えることもできよう。そう考えるとつまり「ウクライナ紛争」とは、まだ「長い20世紀」が終わっていないことの証明なのである。

 

世界を見渡せば、「長い20世紀」の証拠はウクライナ紛争だけではないことに気づく。

 

例えば、EU『普遍帝国』の拡大-欧州諸国の『民族自決』を抑え込む動き-とBREXIT-英国人の『民族自決』-もそのように理解できる。無論、スコットランドにおける英『普遍帝国』からの独立機運は論を待たぬであろう。あるいはウイグルにしろロヒンギャにしろ、各『普遍帝国』中央政府が抑え込みに必死である一方、『民族自決』の潮流は鎮まるところを知らない。

 

あるいは、米『普遍帝国』におけるトランプ大統領も、『民族自決』の証拠の亜種と言ってもよいかもしれない。昨今の米国モンロー主義は世界統合『普遍帝国』から米国が距離を置こうとしている、と捉えることができるし、その米『普遍帝国』内にあってはラストベルトに象徴される忘れ去られた白人達の『民族自決』がトランプ大統領を生んだと理解することもできよう。


要するに「長い20世紀」とは

「『力』に基づく国家統合-『普遍帝国』-から『個』を開放する運動-『民族自決』-が成果を挙げた期間」

と再定義することができよう。ここで『力』とは必ずしも武力や国力などのハードパワーのみを指すのではなく、理念や正義などのソフトパワーも含んでいるつもりである。例えば『社会主義』も『民主主義』も等しく、『普遍帝国』として民族を統合するための「理念」たり得るであろう。

 

その延長には昨今の行き過ぎた-と筆者には思われる-ポリティカルコレクトネスなども含まれる。すなわちそれは、「正義」という「力」により個人の思想信条を縛り統合しようとする動きに他ならないのであるから。要するに様々な力が「個」を「統合」しようとするのが20世紀であり、その過程が悉く水泡に帰す時代が「20世紀」なのである。

 

では、その「長い20世紀」を終焉させる「21世紀」に、人は何を見ることになるのであろうか。無論、そのようなことが筆者に知れようはずもないのだが、筆者は可能性のひとつとして「ボーダーレスの時代」になると考えている。

 

そうは言っても人類社会が「完全自由状態」になどなるはずもなく何らかの形で統合されるに違いないのだが、人は恐らく「国家に拠る統合」以外の拠り所を見つけることになるのであろう。それは「宗教」かもしれないし「経済」かもしれないし「道徳」かもしれない。それではまるで中世に逆戻りするようではあるのだが、歴史は繰り返すものかもしれない、とも思える。

 

いずれにせよ結論として、ウクライナ紛争とは「人類社会を新たな混沌に導いた」存在では全くない、と筆者は考える。ウクライナ紛争とは「人類社会が未だに20世紀という混沌から脱していないことを証明した」存在であるに過ぎないのである。そして……後年「20世紀の方がまだましだった」と言われないような21世紀の到来を、筆者は希望している。

今次ウクライナ紛争の原因の、その90%はウクライナ国民に起因する

先に断っておく。決して善悪を問うつもりはない。ただ、紛争の原因がどこにあるか、それだけをテーマとしている。


で、筆者の結論。原因の90%は「ウクライナ国民」にある。別にプーチン大統領や彼の率いるロシア国家・ロシア軍の肩を持つつもりはない。彼の主張には理があると思う部分は多い-例えば、NATO拡大はロシアの安全保障に重大な影響を与えるとの言には筆者も同意する-が、そのことが直接的な戦闘行為を正当化することはない、と考えている。


ただ、それでも紛争の原因は明らかに「ウクライナ国民」にある、と筆者は考える。90%と書いたのは、100%は言い過ぎだと思ったからで、99%でもいいかもしれない。文章的にあるいは定性的に表現すれば、「ほぼ全ての」原因がウクライナ国民に起因すると筆者は考えている。


理由は2つ。ウクライナは大国に挟まれた小国であることと、ウクライナが民主主義国家であること。


まず、理念や主義思想は於いて、冷静に、地政学的に見てみる。ウクライナは東のロシア、西のEUという大国に挟まれた小国に過ぎないというのが現実である。そして歴史の教えるところによれば、陣営の異なる2大国に挟まれた小国の運命は悲惨であり、その取るべき道は常に限られている。そう、どちらかの陣営に降り、その庇護を求めることである。そしてウクライナは、彼らが望むと望まざるとに関わらず、かつてはロシア陣営にいたのであった。


それが、このところのロシア陣営の凋落ぶりを見たウクライナは、あるいは歴史的にロシアあるいはソビエトへの忌避感を抱き続けていたウクライナは、またあるいは旧西側諸国の繁栄に憧れを抱いたウクライナは、EU陣営への宗旨替えを決意した。その帰結が現政権の発足であり、古くはオレンジ革命に始まり今に至る彼の国の潮流なのであろう。それは彼らの決意であり、筆者はそれを尊重している。しかし……有り体に言えば、やり方がまずかった。


もし宗旨替えをしてEU陣営に入るのであれば、少なくともEU陣営をして「ウクライナを陣営に迎え入れたい」と思わせしめなければならなかろう。しかしウクライナ政府はそれを怠った。本来は水面下で工作を行った上で-EUが水面下でウクライナを迎え入れる準備が整った上で-ロシア陣営に別れを告げるべきであったのだ。しかし、要するに彼らは順番を間違えた。EUがそれを受け容れない前に、高らかに宣言してしまったのである。「ウクライナNATO入りする」と。


ロシアが怒るのは無理も無いが、それ以上にきっと、EUは困惑したことであろう。「この人達は何を言っているのか?」と。それで今回の紛争に至る。きっとEUは困惑していることであろう。「とばっちりだ!」と。で結局EUとしては、口先だけの応援になる。筆者はその態度を醜いとは思うが、同情はしている。今次紛争は、決して彼らの望んだものではなく、また、彼らの招いたものではないのだから。


そういう訳で今次紛争は、小国がそのとるべき道-あるいは手順-を間違えたことが原因であると筆者は考えている。いや率直に言えば「寝返るつもりなら、もっと上手くやれよ」というところである。そして筆者がその原因を「ウクライナ国民」に求める理由の2つ目はまさに、そのような政府を選んだのはウクライナ国民自身であることである。


つまり筆者はウクライナを民主主義国家として認識しており、その決断を尊重しそれに敬意を表しているのである。これが独裁国家でありその決定および責任は独裁者ただ1人に起因し帰結するものであるならば、この紛争は独裁者にその原因があると言えよう。しかしウクライナは民主国家であり、民主的な手続きを経て現政権を選択したのだと理解している。またその手続きおよび過程において、民主的な決定を阻害する要因-平たく言えば選挙監視や選挙妨害-があったとは知らない。従って、今次ウクライナ政府の選択は全て、ウクライナ国民の意思によるものである、と理解しているのだ。議会制・代表制民主主義とは、そういうものであろう。


要するにこういうことである。
ウクライナの現政権は大国に挟まれた小国としての外交運営に失敗したが、
②その政権はウクライナ国民が完全に民主的な手続きを経て選択した正当なる政権であり、
③その政権による失敗の責任は、その政権を選択したウクライナ国民に起因し、
④結果としてウクライナ国民はその責任を負うことになる


筆者が言いたいのは、つまりはそういうことである。だから今次紛争の原因の90%はウクライナ国民にある、と筆者は言うのである。筆者はこの言を、ウクライナ国民と、その民主主義過程を尊重するからこそ挙げている。いやむしろ、これをプーチン大統領の責に帰すことなどは、ウクライナの民主主義に対する侮辱である、とさえ理解している。


あぁ、残りの10%のうちの幾分かは、EUがこれまで示してきたその拡大路線にある、とも筆者は思っていることを付記しておく。現に旧東欧諸国-かつてのロシア陣営-の大半は今やEU加盟国なのである。この拡大路線は2つの国に、それぞれ方向性の異なる誤解を与えた。ロシアには脅威を、そしてウクライナには安全を、それぞれ与えるとの誤解を。尤も、EUにはそこまでの気概はなかったと言うのに……不幸なことに「EU拡大は将来ウクライナも対象とする」と両国は誤解した。


EUなどは所詮ドイツ・フランス連合に過ぎないのである。ドイツとフランスが2度と戦争をしないためのそれは枠組みであり、その見返りとして、独仏両国が経済植民地を拡大することを『合法化』するためのそれは修辞に過ぎない、と筆者は考えている。


さて今次紛争の行方について、今のところはプーチン大統領の言が正しいように筆者には思える。曰く「ウクライナに主権は存在しない」。筆者の趣意はこういうことだ。


つまり、今次紛争を最終的に終わらせるためには、EUNATOを交渉のテーブルにつかせなければならない、ということ。NATO拡大阻止が目的なのであれば、ロシアの交渉相手はウクライナではなくNATOであろう。丁度、北朝鮮の交渉相手が韓国ではなく米国であるのと同様に。当事者たるウクライナにとっては忸怩たるものがあろうが、ロシアから見ればウクライナがいくら中立を謳ったところで意味はない。NATOにそれを誓約させない限りにおいては……


皮肉なことに、プーチン大統領の言は正しいのである。少なくとも小国たるウクライナは、自らの属する陣営を自ら選択する権利は、これを既に失っている。「ウクライナに主権は無い」というプーチン大統領の言に筆者が首肯する所以である。無論ここで、その善悪を問うつもりもなければ意味もない。

ウクライナ-日本政府に期待すること

戦争は、あるいは始めるよりも終わらせることの方が難しいのであろう。振り上げた拳の上手な降ろし方は、例えそれが子供の喧嘩であっても或いは国家間の戦争であったとしても、同じくらいに悩ましい問題である。いや子供の喧嘩の方が、親や先生が-強制的に-仲裁できるだけマシかもしれない。今や米国は、残念ながらその仲裁役としての能力を疑われているのであるから。

 

筆者は無論素人なので詳しい情報を得ている訳では全くない。しかし、プーチン大統領の身になって考えてみれば、筆者であればロシアとクリミア半島が地続きになるまでは、この戦略線から外れることはできないと考える。例え今回の軍事行動は短期的に終える-侵攻地域を実行支配した程度で一旦後退する-としても。

 

また筆者は、この機に日本が西側諸国と協働して経済制裁を行うことには、あまり賛成できない。理由は2つ。ひとつは、過去の経済制裁は結果としての実効力を持たないから。イランも北朝鮮もシリアも……そしてロシアもだ。北風と太陽ではないが、どうやら北風戦略で分厚い衣を脱がすことはできないらしい。尤も、太陽政策が奏功したという話も聞かないが……

 

ふたつめの理由は、あの地域、そしてNATOというフレームワークに直接は関与しない日本だからこそ、あの地域の紛争を仲裁できる可能性がある、と考えること。言い換えれば、喧嘩してる当人同士が仲直りできる条件を、双方に縁がある-あるいは双方とズブズブではない-第三者であれば提示できる余地があること。そして、双方が利を得られる程度の経済的・技術的背景を、日本であれば持っていること。

 

そうやって考えてみたら、『小説家になろう』で筆者が公開している拙作『フレミングの法則』も、あるいはひとつのヒントになり得るのではないだろうか。

 

レミングの法則~踊る赤髪の落ちこぼれ撃墜王

https://ncode.syosetu.com/n6406hf/

 

作中では、バーラタ共和国-その地理的なイメージはインド-とパラティア教国-その地理的なイメージはイラン-の間で始まった戦争は、グレートエイトアイルズ-その地理的なイメージは日本-の仲裁により終戦を迎える。その終戦の条件は当該二国間での相互不可侵条約締結と、グレートエイトアイルズを含む三ヶ国間での経済同盟締結であった。

 

その顰に倣えば(?)、ロシアとウクライナが相互不可侵条約を締結するよう日本が働きかけてやることが望ましい。仮にウクライナが将来NATOに加盟したとしても-そして恐らくそれは、不可避なのだ-、ある一定程度のバッファーにはなるとロシアに期待させる可能性がある。同時に、クリミア半島を除くオデッサからキエフを結ぶラインから東のウクライナ国内には、他国の軍隊の駐留を相互に認めない。このような協定をNATOとロシア、ウクライナ間で締結すれば、ロシアのみならずNATOも、ウクライナ東部をバッファーとして期待することができよう。

 

その上で、日露宇三ヵ国間でウクライナ経済開発に関する協定を締結し、日本もそれに投資するというスキームを作る。今時であれば例えば再生可能エネルギー的なものでもいいかもしれないし、食料プラント的なものでもいいかもしれない。あるいは医薬品とか自動車関連とか? そういう、ロシアも投資している以上攻撃できないような設備、対象をウクライナに作って、ロシアとウクライナ-と日本-の共同権益にしてしまえばよいのではないだろうか? あるいは西側諸国は怒るかもしれないが、まずはウクライナで発電した再生可能エネルギー由来の電力をドイツに廻してやることから始めるとしよう。

 

また、先に「クリミア半島と地続き」と書いたが、その延長線で面白いことを考えた。クリミア半島と対岸のロシア領を結ぶ、黒海トンネルを掘削あるいは鉄道道路併用橋を架橋する事業に、日露宇三ヵ国で投資するというもの……って、もう既にあるんですね。知らなかった……

 

ja.wikipedia.org

 

Wikipediaによれば、道路部分は2018年5月15日、鉄道部分は2019年12月23日に開通したそうな。あぁ、意外と最近、というかクリミア併合以降のことだと知った。まぁ折角なのでもう1本くらい、日露宇友好のために架橋してはどうであろうか。瀬戸内海にだって3本も架かっていることだし。折角だからガス橋も架けよう。その方が権益っぽいし……戦略的にも、別ルートがある方がプーチン大統領も喜ぶことでしょう。

 

いずれにせよ、ロシアに媚びることなく-コレ重要-、しかしロシアには利益があるように思わせて、適当なところで拳を降ろさせる。その上で実利は日本が取る。そんな外交を日本政府には期待したいのであるが、さてどうだろう。

 

あぁ、日本がこういう対応を考えるべき理由は、本当は別にあるのだ。それは、香港であったりチベットであったりウイグルであったりモンゴルであったり……そして無論、台湾、尖閣竹島、北方4島なのである。「力による現状変更を認めない」というロジックを、日本は「安易に」鵜呑みにしてはいけないのだから。

 

念のため……

 

筆者は、日本は武力による領土拡大を目指すべき、等とは露ほども考えていない。ただ「力」の定義が不明瞭である以上、ソフトパワーも「力」と言われかねない、と考えているだけである。例えば「民衆を扇動した」みたいな謂れ様を想像して欲しい。上では「安易に」という表現を使った所以である。

五輪はご臨終?

筆者は子供の頃、母親からよく「あんたはひねくれ者だ」と言われていたものである。何故なら、バレーボール世界大会(?)のTV中継に多大な嫌悪感を抱いた筆者は、口角泡を飛ばしてそれを批難していたからである。

 

「日本チャチャチャ」
「そ~れっ!」

 

大声援の後押しを受けた全日本チームが得点すると、アナウンサーが絶叫する。

 

「日本決まったぁ! 同点に追いつく値千金のアタック!」

 

みたいに。で、その度に筆者は違和感を感じるのである。何故、公平であるはずのアナウンサーは日本チームばかり応援するのであろうか? と。そして彼(彼女)は何故、相手チームの得点やファインプレーをもっと褒め称えないのであろうか、と。その度に母親は筆者を諭したものである。曰く「あんたも日本人なんだから……」云々。今では少し丸くなったので、サッカーW杯の日本代表が得点を決めると嬉しいと思うのではある(尤も、アナウンサーの絶叫が煩いことに変わりはない)が、これはバレーボールとサッカーの違いがゆえではない、と筆者は確信している。

 

ところで、筆者はスポーツを政治に利用してはならない、などというナイーブな意見には与しない。もし本当にそう思うのであれば、競技団体は国から強化費用などを受け取るべきではないし、国立の競技場やその他施設も利用するべきではない、と思っている。競技人口の拡大も、選手レベルの引き上げも、国内での選抜から海外への派遣まで、須らく各競技団体が自弁で行えばよかろう。無論、結果としてスポーツは金持ちに支配されることになるが、政治による支配から解放されれば、カネに支配されるようになるのは当然の成り行きであろう。あるいは逆に、スポーツをカネから解放するために、政治が介入していると表現することもできるかもしれない。そして「カネを出せ、口は出すな」が通らないのは、古今東西のお約束でもある。

 

たまにスポーツ選手が国民栄誉賞等を受賞すると日本中が大騒ぎになるようであるが、「スポーツの政治利用」を批難したのと同じ口が「〇〇選手の国民栄誉賞は目出度い」等と宣っているのを見ると、控えめに言っても「コイツバカか?」と思わざるを得ない。国民栄誉賞など、時の為政者の人気取り政策に過ぎないのだから。ヤン提督がユリアンを軍人にしたくなかった所以であろう?

 

さて、北京冬季五輪。ドーピング疑惑やら不可解判定やら、色々と不祥事方面が賑わっているようで面白い。何しろ筆者にとっては、妄想ネタの宝庫なのだ……以下は筆者のまるっきりの妄想である、とお断りしておく。あぁ、不可解なジャッジによって不幸な目にあった選手には可哀そうではあると思う。しかし実際のところ、競技の世界において審判は絶対であると理解する以外に法はあるまい。いくら批難したところで、もう結果は覆らないのである。ならばせめて、笑い飛ばすしかないであろう。これはそういう妄想の類である。

 

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20XX年、ついに初の2都市同時開催となる夏季五輪が開幕された。主催都市は上海とラスベガス。そして五輪の華、世界最速の称号でもある男子100m走ゴールドメダルは、2人の選手に贈られた。すなわち、ジンバブエ出身ンゴニザシェ・バンダ上海五輪金メダリストと、キューバ出身アルド・キンテーロ ラスベガス五輪金メダリストの2人に。そう、この年のオリンピックは上海五輪とラスベガス五輪に分裂して開催された初のオリンピックであったのだ。

 

上海五輪の開催はIOCから分離独立した「凡人民民主的奥林匹克委員会」が開催を担当したのであるが、水面下では激しい参加国招致バトルがIOCとの間で繰り広げられたという。実弾と鉛弾が飛び交う交渉の末、上海五輪にはアジア・アフリカ州を中心に109ヶ国と地域が、ラスベガス五輪には欧州・南北米大陸を中心に103ヶ国と地域がそれぞれ参加することとなった。無論、重複エントリーする国はなく、中立を唱えるアジア州のいくつかの国と地域は両大会へのボイコットを表明したのであった。

 

発端は2022年に開催された北京冬季五輪である。この年の五輪ではロシア選手のドーピング疑惑や開催都市である中国出身選手への明らかな贔屓判定が相次ぎ、特に旧西側諸国からは大きな反発と疑惑解明要求が寄せられていた。また同時にこの年は、ロシア・中国にあってはそれぞれ、政治外交的に大きな転換点を迎えていた年でもあった。すなわち、ロシアにおけるウクライナ問題と中国における人権問題ならびに終身首席問題である。いずれも後には引けない両国は共同して旧西側諸国への反発を企てる。それが「凡人民民主的奥林匹克委員会」の設立であった。

 

そう、元々2000年代の五輪には、様々な議論が提示されていたのである……

 

1964年東京五輪および1988年ソウル五輪は、五輪開催があたかも先進国の仲間入りを証明するかのような華々しい成功を収め、欧米地域外への五輪拡大が期待される発端ともなった。更には、1982年ロサンゼルス五輪の商業的成功を機に拡大方針に舵を切ったIOCの思惑とも相まって、20世紀末には発展途上各国、就中南半球地域での五輪開催が期待されるようになっていたのである。そしてその象徴たる2016年リオデジャネイロ五輪は、しかし、当初の期待に応えることができなかったと言われて久しい。すなわち、商業的拡大路線を進むIOCは肥大化し過ぎていたのである、と。その後、五輪開催にかかる費用が経済効果を上回る大会が続いた結果、気づいた時には既に、五輪招致レースに立候補する都市は激減していた。ただ2つの例外である米国と中国、およびその強い影響力のある国を除いては……

 

そのような事情を背景に、2022年北京大会終了後に中国政府が出した公式声明の大要は次のようであった。

 

汚職と腐敗に塗れた拝金主義者どもの群がる国際オリンピック委員会には、もはや五輪憲章を唱える資格なし。彼らは未だに白人主義、西洋主義から抜け出せず、彼らこそがオリンピズムの精神を汚していることは既に明白。クーベルタン男爵の遺志を継ぎ五輪憲章の精神を真に具現化するためには、現在の国際オリンピック委員会に替わる新たな協会の設立が必要不可欠である、と我々は考える」

 

こうして中国、ロシアを中心に設立された「凡人民民主的奥林匹克委員会 (略称:UPDOC Universal Peoples Democratic Olympic Comittee)」は、各国政府ならびにオリンピック委員会に大きな決断を迫ることとなった。曰く「国際オリンピック委員会」と「凡人民民主的奥林匹克委員会」のいずれに参加するのか、と。そう、これは踏み絵と同義である。米国支配と中国支配の、貴国はいずれを受け容れるつもりであるのか、との。

 

後発のUPDOCにとっては、その正当性を示すことが最初の課題であった。尤も、IOCの行為が五輪憲章に適当していない箇所の発見など、今やクイズ番組の出題にもなり得ないほど自明のことである。IOCに正当性が無いことを散々に指摘した上で、UPDOCはその公用語に中国語、ロシア語、ギリシャ語、アラビア語を加えるところから取り掛かる。そして2024年パリ五輪以降、中国・ロシアは五輪ボイコットを続けると同時にUPDOCの組織固めに専念するようになっていく。

 

開催の度に参加国が減っていくIOC五輪には、次第に開催都市からも怨嗟の声が挙がり始めていた。今や米国メディアコングロマリットの実質的支配下にあるIOC五輪は、アスリートの都合に関わらず競技時間が米国のゴールデンタイムに合わせられ、開催国ですらその放映権の取得には莫大な費用が掛かる始末。五輪とは、開催国の費用を使ってIOCと米国メディアに金儲けをさせるための仕組みであることに、今や多くの人々が気づき始めていたのである。

 

その点、古来より朝貢貿易のスタイルに馴染みの深い中国は、特に開発途上各国からは賞賛の声をもって迎えられた。朝貢貿易では必ず、貢物より多くの下賜品が得られることが慣例である。UPDOC五輪を開催すれば、恐らくは開催コストよりも多くの経済的便益を、中国政府が担保してくれることであろう。あるいはUPDOC五輪に選手を派遣するだけでも……UPDOCに対するそのような期待は、IOC五輪が開催される度に、それを反面教師として膨らんでいったのである。

 

UPDOCとIOCによる招致バトルの大勢を決したのは、ギリシャ政府およびギリシャオリンピック委員会がUPDOCへの正式参加を表明したことであろう。早くからその公用語ギリシャ語を採用していたUPDOCは改めてギリシャ人のアポストロス・ツィオボルを会長に選出し、UPDOCこそが古代オリンピックの正当なる後継者であることを内外に宣伝した。また同時に、彼を含む歴代UPDOC会長ならびに理事の全てが平民の出身であることも、五輪憲章の精神に則るものであるとしてこれを宣伝に利用した。米国と中国の間で揺れ動く小国にとって、ギリシャ人会長の選出が決定打-あるいは適当なエクスキューズ-となったであろうことは想像に難くない。

 

斯くして20XX年の五輪2都市同時開催に至る。UPDOCは今後、旧東欧諸国を中心に参加国地域を増やしていくと予想されている。一方のIOCは敵失によるの他には打つ手なし、というのが現状のようである。無論IOC内部にあっても改革推進派の声は日増しに大きくなってはいるのだが、このような場合の改革など方向性が知れているのである。すなわち、コスト削減、大会のスリム化、簡素化、透明化、公平化、etc.……しかし、シンプルでコンパクトになったスポーツ大会など、誰が見向きするというのであろう。そのうちに、米国内にスポーツモンロー主義が吹き荒れることは自明である。

 

「米国内での決戦こそワールドプレミアムである」
「競技をしたければ米国に来るべし」
「海外開催のスポーツに米ドルを支払う必要なし」

 

ここに、多くの者が勘違いしていることがある。すなわち米国は島国である、という事実である。島国は大陸国家とは発想が異なる。何故なら島国は、いつでも国境を閉じることができるのであるから。

 

いずれIOC五輪はその終焉を迎えることになろう。それは、中国による覇権の確立と同義とは限らないが、少なくとも、西欧的価値観による世界支配の終焉には繋がるかもしれない。願わくばそれが、真の意味における価値観の多様化であらんことを……

 

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五輪の未来に関する筆者の妄想に基づくショートストーリー。その名も『五輪のご臨終』ならぬ……

 

『五輪終』

 

おあとがよろしいようで